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鹿島市の岩永京吉美術館へいく。
デパートに車を止め、徒歩7、8分。
よその町はぶらりと歩きたいものである。
美術館の近くにガラス戸開けっぴろげの懐かしい表具屋さんがあった。
路地に入り美術館に向かうと中から声がした。「どうぞおはいりください」
企画、脚本、監督、運営、管理一切を一人でされている娘婿の北川さんである。
第30回特別企画展「岩永京吉と金子剛」・師弟展である。
お二人がここ鹿島で何ゆえに絵画の道へと進んだか、その歩みが見えて来るだろう。
今となっては先生と生徒がライバルのような展開でもあり、岩永先生の奥ゆかしい大きさがここ鹿島にピタリと生きている。そんな美術館である。
岩永先生と言えば、「牡蛎打ち」の画家と思っているが、銀杏林のような黄葉に溶け入る群像の日本画があった。傾向が違うので気にはなる。
作品と一緒に下絵と思われる丹念な裸婦デッサンとセザンヌの「水浴」を想わせるペン
画が飾られている。
日本画に西洋画的な空間やテーマを取り込もうと模索されていたのだろうか、完成作はは純然たる岩絵の具ざらざらの日本画となっている。
鹿島から東京そしてヨーロッパへと思いは茫漠と飛び膨大な時間が一瞬の筆致にもなる。迷い恐れた欲望のかなたに観念が薄れていくようである。
顔彩でグレーの紙と真白な紙に描いた「鯉のぼり」の習作2点の展示は目を引いた。
西洋的な空間と日本的な空間が見える。立体と平面。密度と余白。現代という美術の
基本理念であろうか。
北川さんがおっしゃるには「父は染物屋の子でしたから」と。
ややもすると作品完成よりも作業、工程にその秘密や核心が隠されていることがある。誰も教えてくれないものを自分で乗り越えていかねばならない、妥協はない。
感じるものはあってもどれだけ乗り越えられるかは、その道の深さに逆行するだろう。
北川さんが言われるに、黄土調の人物画は日展に入選される前の作品でこれを最後に「牡蛎打ち」に向かわれたそうである。
色んな切り口が見える多面な岩永先生である。そしてその源流をよしとする金子先生であります。ありがとうございました。