服部大次郎の日々雑感2024⇦2006

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アラビアのローレンス

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以前なら、コケコッコーそしてラジオ体操の曲で目が覚めるところだが、ご近所にはバカ鳥も小学生もなくすべて途絶えた。 それに、クマゼミの大合唱もないまま・・。老人は海を漂い、ローレンスとなって「アカバっ」と飛び起きる。「メリークリスマス、ミスターローレンス」じゃない。」 アンソニー・クイーンの「アカバ」を見よ。  <塚本猪一郎新作版画展 ギャラリー憩い> ソフィストケートされた形と色。それでいてユーモラス。  「アラビアのローレンス」は何度見ても、「あれっ、そこは見てないよ」と言うシーンがあまりにも多い。 何も見れてないのである。スケールのちがいに「スケールの大きさ」だけを見ているのである。日本人には無理なお話。日本の観客は口をそろえてすばらしいと言うが、島国にはない、スケールの大きさを見ているだけなのである。 歴史的背景、その時代など何も見れていないバカ。 今ならビデオ、DVDらでくり返し見られるけど、最近の映画評論家とか言うアホたれどもは修復の効く受験生である。  辺境の島国で考えたことなど世界には通用しない。通用している分野や通用している部分があるなら、それは教育と個人の勉学である。それぐらいかぼそいもので世界に対抗している日本。W杯サッカーでよくわかったはず。 「アラビアのローレンス」の根底にあるものはソレ。  狂気になったローレンスがナイフでトルコ人を惨殺していくシーンが公開当時(1962年)のフィルムにはあったはずだが、その後スウェーデンで見た時も日本で見たときも、完全版にもない。人種差別的な狂気の殺戮は、永遠に消し去られたようだ。