服部大次郎の日々雑感2024⇦2006

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反逆児たちの群像

佐賀新聞の美術月評で県立美術館の野中耕介・学芸員が「反逆児たちの磁場」と題して磁場(展)のことをとり上げてくださった。ありがとうございました。その評論は2009磁場コナーに掲載させていただきました。もうかれこれ30年ぐらい前になるのだろうが、美術に限らず、文化がぱっとしないご当地において、あらゆる文化のジャンルがせっさ琢磨していた。伝統的路線以外にも美術、音楽、文学、映画、演劇などの新しい波が佐賀にも起こっていた。美術においては佐賀西日本新聞記者の池田賢士郎さんや佐賀新聞記者の原徹雄さん、園田寛さんらが公私にわたり企画や記事で独自の佐賀文化論的方向を打ち出されていた。それは、美術だけじゃなく広く文化全般にわたっていた。県文化課が発行する月刊誌「新郷土」(樋口栄子編集長)は新聞とは異なりより深く取材された文化特集が組まれていた。また。池田賢士郎さんが主宰の近代詩研究会「はんぎい」というグループがあって、池田さんに誘われるまま、25歳のボクは”はんぎい”に参加したのであったが、そこで学ぶことは多かった。池田賢士郎氏を中心に文学の勉強会であるのだが、門外漢としては、美術系の人たちとは異なる洞察の新鮮なことと、そのあとの一杯をたのしみに欠かさず出席していた。内山良男さん、弥富栄恒さん、池正人さん、堤盛恒さん貝原昭さん、古賀宣絃さん、西村信行さん、吉岡誠二さん、太田照清さん、等々多数の精鋭がおられで盛んであった。隔年誌「はんぎい」も出ていたし、キムジハのビラ配りを街頭でしたこともあったな。美術界には、物言わなくても、絵だけを描いていればいい、という風潮があったようで、あぐらをかいているようにも思われた。「そうじゃないんだ!」「文学も美術も音楽(等)も連動しているんだ」「佐賀という土壌を捉えなければ・・」と口を酸っぱく吐露されていたのが、池田賢士郎さんであった。昭和54年、県展招待制度に端を発し、小川末吉(美術)、中島宏氏(陶芸)、舟一朝氏(美術、造形)を代表に「県展をよくする会」が立ち上がり、県展と同時に「県民展」が開催され、俗に言う反県展騒動である。ボクとしても従来の美術界、制度に対して疑問を感じていたし、意識改革と捉え賛同参加した。何度にも渉る県との折衝、会談もたのしいものであったが、その陰で日夜、中心となり戦略を立て文書等を作成していたのが、(もう今だからイイだろう)池田さん、西村さんであった。すったもんだの末、県文化課長で作家でもあられた田中艸太郎さんは招待制度廃止に踏み切った。英断とも言えるあっけない幕切れであった。しかして時代は急激に大きく変化していった。地方にあっても、消えていた催事や祭りが復活し、文化的分野も裾野広く盛んになっていくのではあるが、運動、活動としての方向性は弱体化していったのではないか。やがて時代の繁栄と共に「はんぎい」もなくなり、池田さんも独自に佐賀の文献をあたり、知られざる表現者たちの発掘、研究を現在も執拗にされているようで、研究報告としての数冊が出版されてる。また西村信行さんは、佐賀の群像ともいうべき若者たちの発表や活動をつぶさに足で見て歩き、自身が主宰する「葉序」にその感想を添え記録されていた。自らも社会派としの活動家でもあったのだが、体調を壊され続けられなくなられたことは、誠に残念なことで、判り易い記録が途絶えるということにもあいなった。記憶に漠然と残していくことは、容易いことだが、後々も漠然としたことでしかなく、漠然を埋める作業たるは、記憶の断片があればイイということでもない。当然知っていてイイはずの身近な歴史や事象までも、漠然の中に葬りこまれているようである。見えない部分にこそ、見えることの本質はある。そこに賢士郎氏の言われる思想があると思う。