山崎正之のアート奇譚
山崎正之のアート展「吉野ヶ里町の”アートえる”11月21日(木)~11月26日(火)」。
準備中にお邪魔した。
大掛かりな展示で、昨日から3日間をかけて飾りつけをするとのこと。
画廊の空間全体を意識しての展示であり、インスタレーションとなっている。
電気屋ならではの山崎さん。
破棄された蛍光管、(家電製品を保護する)発泡スチロールそして愛犬のドッグフードの大量な空き缶などが作品となって新たな姿(見え方)を見せる。
それぞれの作品にはLED電球が配線され、室内を暗くしたり、夜だけのナイト展示もある。
宇宙を漂流する人工衛星や宇宙船の残骸のようでもあれば、
発掘現場に現れたある時空間の遺物であったりする。
これまでのテーマは”大詫間漏斗(じょうご)村”に見られるような局部的な場所の持つ力、強さみたいなものを大地と人の情念としてドロリと醸し見せた。
マネの”オリンビア”やボッティチェッリの”春”のコピーを使いその上からマスキングテープで覆うというマネとボッティチェッリへのオマージュシリーズもあった。全体をテープで覆い、朝の光のように透けて見えるのも斬新だった。
矩形を意識したタブローに入念に着色がほどこされていたのが、カラーコピー紙、マスキングテープだけと次第に変化はするものの絵画としての領域内でのインスタレーションであった。
それが今回は絵画の概念を超えて宇宙へと飛んだようだ。矩形らしい平面は一つもなく自在に形が膨張し無機質なオブジェが増殖する。
家電品だけでなく自分の中の概念も捨て去ろうとするかのようだ。
ミクロであったものが実はマクロであり、さらにマクロはミクロであるという終りのない構図というか時空間である。
人間が存在し生きているということは相対的なこの構図である。
タルコフスキーの映画”惑星ソラリス”(1972年)もそう語っている。壮大なドラマである。
”終わり行くもの 終わりなきもの”と山崎さんが語るよう、
局部的な位置を宇宙空間から見ようとする時、ミクロとマクロが混沌と交錯していく。
あの世とこの世が背中合わせの現実とでも言うのか。
遊びをせんとや生れけむ。