服部大次郎の日々雑感2024⇦2006

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公園と田んぼ ちょっとlong

小春日和の公園
昔々、左右対称のニースの公園が佐賀の田圃
見えたことがあった。
それは今も変わらない。
やはり、ミケランジェロ・アントニオーニの映画「欲望」の始まり、
公園シーンを忘れてはならない。植え込みの陰に何やら死体のような・・。
窓を開けたアラン・シリトーは公園を走るランナーを見て
The Loneliness of the Long-Distance Runnerとメモった。

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歩いていてモナコのニースのF1レースやカジノがある丘の一角に突然現れた
  「公園」F100  油彩1977年作(西日本美術展入賞)
  実際、海の部分にはカーニバルのステージや看板があった。
 

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F6 森林公園 水彩 2020・11

本を読んだりケイタイをしたり、一人参加も少なくない

 

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月一回の 記憶の風景が始まって7回目の「公園と田んぼ」1980年8月の佐賀新聞
内容羽ともかくめちゃくちゃな作文である。よくも原文のまま掲載してくださった。 
 
原文「公園と田んぼ」

かつて、モナコを歩いていてばったりと公園に〃出会っ〃た。

ヨーロッパにしてみれば小柄な公園で、私の位置から正面に噴水があり、そこから奥へ芝生が広がり、その奥にもう一つ噴水が見える。噴水を半円に、白、青、黄の椅子が並ぶ。

左右対称に植えられた熱帯樹が背景となる長い矩(く)形の公園である。

ヨーロッパの公園は多く見てきたが、人為的に造られた箱型公園ではあるが、どこかほかの公園とは異なって感じる。

老婆がコンポーズブルーの椅子に腰かけて新聞を読んでいる。

映画「欲望」での公園のファーストシーンに類似した雰囲気でもあるが、もっと驚いたことは、佐賀の田圃(田ん中)に忽然と立ちすくんでいる心地になったことだ。

似ても似つかぬ佐賀の田圃モナコの公園がどこかでダブっている。

子供のころ、田舎とは田んぼが広がり稲妻が空を駆け、それを背に蓮の葉を頭にかぶった少年が上手から下手へと走り去っていく、そんな得体のしれない芝居の舞台のようなものだった。

草むらをかき分け、クリークをのぞき、あぜ道を歩く。蛇やカエルが飛び出す。雷魚が突然、跳ねる。百姓さんが稲田からぬうっと立ち上がる。ドキリとする子供にとっては、広々とした田んぼというより、前をふさがれたジャングルを体験していたのかもしれない。

私は修正として田んぼへよくでかける。新しい人家とビニールハウスが増えてはいるが、いつ見ても代り映えのしない退屈な田んぼと山並み。稲田に水を注ぐコンクリートの升、水門が時としてヨーロッパの彫像であったり、モダンな現代作品として環境に調和して見える。

また、割れた肥えがめや石地蔵がポンペイの遺跡に思えたり、案外イメージはたのしく膨らむ。水門をバニシングポイントに韓国の民画にある逆遠近法。あるいは水門を軸として田んぼと山並みが常に対称を成して等価に見えぬ線で結ばれている。小さくはクリークに座る釣り人を背後から見る時、クリークも対称に分割される。これもまた、西洋のどこにでもあった均衡である。

列車で佐賀へ入って来るとき、この何の変哲もない田んぼと山並みが目に映ると「佐賀に来た」と確かに心でつぶやいている。記憶の風景1980/8/24 公園と田んぼ

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当初はカレンダーの裏などに描いてた。