服部大次郎の日々雑感2024⇦2006

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シネマの間

わざわざ映画館へいって見る時代ではなくなった。クラシック音楽にしても絵画にしても同じなのに、まだ「しっ、しーっ」とたしなめられる。個展のオープニングパーティだって、ろくすっぽ絵は見ないで、呑んでばかり宴会もある。「しーっ」という感覚で触れたい時は、時と場所を選び、ひっそりと出会えばイイことなのだ。見たければ、レンタルだって、CSの映画チャンネルだってある。ご飯食べる時、くつろいでいる時々、かけっ放しにしておけば済む。ありとあらゆる種類の映画をくり返し、くり返し見れる。集中して正座なんかして見る必要もない。仕事だってテレビの前にもってくれば、ことは済む。かつては、映画館に通うしかなかった。「ウエストサイド物語」を50回見たとか、自慢さえしていた。評論家もたいへんだったろう。ところが、一回に集中して見るより、くり返し何度も見ていと、新たな発見、ちがった見え方なども生じるのである。映画館で一度見たと言うのは、気に入ったところの記憶であり、全体の印象である。かなりの映像を見落としている。それで、済む映画もあれば、反復していくうちに発見的に見えてくるものもある。要は文学にも似て行間を読むと難しく言わないまでも、制作年代と今の時代、社会、周辺と言うモノとのズレなり、関わる外との連関が新鮮なのである。娯楽を楽しみたいというときは「エラゴーン」「007」「三丁目の夕日」でもイイのである。以前、ビデオが台頭してきたころ、NHKで「大林宣彦監督とオリバーストーン監督」の対談があった。大林監督は、「映画館の暗がりの大画面に集中するときのあの感覚が・・云々」と修行僧のようなことを言い。オリバーは「ビデオで見るのと映画館で見るのとは本質的に同じで、どこがちがう・・」ってことを言い、かみ合わなかった。ビデオの時代だも過ぎた。ケイタイでも見られれば、テレビもデジタル、大型画面。ゲームも平面からプレイステーションへと飛躍した。よろこぶべきか、憂えるべきか、そこが問題だ。それでも、シネコンは増えている。