服部大次郎の日々雑感2024⇦2006

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るーゑ35年間 ありがとう Ⅰ

今夜はるーゑに絵描きさんたちや常連さんが、次々に現れ、顔をそろえる。「るーゑ」閉店、新規移転と聞いて、おのおの方、心なしか動揺しているもようである。よろこんでいいのか、かなしむべきことなのか、そんなところで盛り上がってた。山ちゃんが「喫茶店をはじめる!」と、ある喫茶店で修行をしながら、開店の準備をしたのは24,5歳のころだった。夢も希望もみな大きかったが、それと等しく不安もあった。何かしなくては・・。ボクラの世代(団塊とも言う)は絶えず暗黙の競争を強いられるのであった。団塊であることは、みんな仲良しではなく、いさかいもあれば、悩み、呑み、狂い、歌い、そして、個人というものを大事に刺激し合うことだった。絵描き、会社員、商店主、S新聞の記者さんたちがお客となり、船出していった。有田陶器市ツアー、城島高原バスツアー、ソフトボール大会、杖立温泉ツアー、などなどが初期のころにはあった。皆若くたのしかった。画廊喫茶を最初にはじめたのも「るーゑ」だった。ここにて、多くの若いアーティストたちが集うようになった。「るーえ群像」のはじまりでもあった。音楽家、詩人、文学者、ATGの関係者もくるようになり、連日芸術論を闘わせたな。そのころ、店内にピアノを入れてのY冨さんのピアノコンサートも何度かあった。656広場、佐賀駅コンコースでの「年忘れヴェグサシオンコンサート」も大晦日の恒例行事となった。春の震えながらの夜桜宴、年末の無礼講・大忘年会、夏は「栄えの国まつり」に御神輿をみなで制作して出場し続けたが、次第に足腰が立たぬものが増えはじめ、断念。