服部大次郎の日々雑感2024⇦2006

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八田千恵子著 佐多稲子・・・の原風景

2006年に出版された「交差点で」 佐賀九人散文集の中の八田千恵子著「佐多稲子の中の佐賀」「佐多稲子『樹影』の世界」を見る。
昔々、佐賀の「新郷土」で八田さんの佐多稲子についての一文を読んだことがある。
佐多稲子という名前と柳町郵便局の繋がりだけは、その時点で記憶していたが、その集大成のようなものだ。
佐多稲子の母高柳ユキは柳町郵便局の局長の娘だった。
明治三十七年六月一日、佐多稲子長崎市で産声をあげた。
母ユキは佐賀県立女学校一年生で身籠り学校を退き、長崎の知り合い宅に身を寄せ佐多稲子を出産した。父は県立佐賀中学校五年生・田島正文である。
母ユキは四年間の病床の末に23歳で郵便局の離れで亡くなった。
このとき八歳だった佐多稲子は、父とともに長崎から駆け付け、夕暮れのこの庭で泣いている。
とプロレタリア作家としての佐多稲子の足跡を土壌と地図から再現しようとする、足と時間をかけた労作である。
佐多稲子が13歳まで育った佐賀と長崎を通して稲子の波乱の人生、風景の原点として佐多稲子文学を見ようとするもののようだ。
舞台が我が町のことでもあり、地図の上に当時の人々の影が動く。
後の郵便局長であった松尾正己(故人)や稲子の父・田島正文の実家のあった隣に住む佐星醤油の吉村妙子さんも登場されるが、その御子息も我が友である。
名を成した人にとどまらず消えゆく地図も、ある日風景となって己に重なるものである。
忘れえずどんな人であろうと、ふとおもいだしたり、懐かしむのも自然な人と人とのつながりである。