服部大次郎の日々雑感2024⇦2006

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山口亮一画伯のデッサン

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午後、山口亮一旧宅で、山口亮一画伯のデッサンに関して、フォトジャーナリストの大塚清吾さんとトークショーをする。
およそ50人のお客さんで座敷はいっぱいであった。
ぶっつけ本番、休憩を入れて2時間。
久米桂一郎、岡田三郎助らと佐賀美術協会を創設された山口亮一さんである。今ではもう知る人たちも少なくなり、語り継がれることもあまりない。1880年生まれで東京美術学校を主席で卒業され、佐賀に帰り師範学校の教師となり佐賀美協を柱に長きに渡り佐賀の美術発展に広く貢献されたかたである。久留米の青木繁坂本繁二郎より二歳年長であるが、以後美術教師として佐賀で生きられた。
以前はボクも山口さんにいついてなにもしらなかったが、20代のころ中央画廊というのがあって、そこで見た植物のデッサンに触発されある啓示をいだいたのであるが、その作者が山口亮一さんであった。
どこにでもある庭の草花をささっと鉛筆で描いてあるのだが、モノを見る目の鋭さと深さに感じ入った。
山口翁とのかすかなる接点ではあろう。
そのデッサンもどこかにあるのだろうが、以後ボクは見ていない。
権威とか名声には無縁のように飄々と、外ではまじめな教師として、家ではおかしなおもしろいお父さんとして存在されていたようだが、(中央と地方、同級生らの名声など)心のうちは興味あるところで謎である。
山口先生の教え子の方々の回想記にもそこが出てこない。今ではみなさんが、80代から90代である。今のうちにそこいらを聞いておかなくちゃ・・。
大塚さんとは呑み屋で一杯やってるようなそんなテンポの会話じゃなかったろうか。話し出したら終わりもなく、時間だけが過ぎていく。
後ろの方でスタッフの女性の方が「5分前」のボードを上げる。
結論めいたものもなく、突然のように終わった。
しかし、皆さんユルユルの笑顔で談笑されてた。
有田からわざわざ来られた焼き物のI社とF社のかつての社長さんは繰り返し「記憶の風景を描いてください・・」と・・。
皮肉にもうれしい限りであります。
 ※ 途中、絵を描くようにいわれ、ホワイトボードに前列のおじさん二人とリクエストではなたれ小僧を描く。