20代後半の作品と思う。モダンタイムズを思わせる歯車、現代の象徴であると同時に自身の心臓部・核であろうか、黒の油彩の上に白いチョークが走る。当時としては白いチョークがニクイ。ここでも立体でありながら、チョークの線が現実の平面なのである。
林田龍信回想展(小城のゆめプラット)を見る。
欲にもいろいろあるんだろうが、林田さんのは自分に対するものでもなく、絵画対自分というミニマルな図式なのである。ピュアというべきかも。
林田さんがこの世にいないという事実が筆致としての壮絶な痕跡を物語っている。
貪欲に様々な現代を取り込んでいた若いころの作品は絵画を枠から解放しようとする荒っぽい爽快感がある。これをコンテンポラリーと言えば信じがたくなる。作家もそこで立ち止まる「時流の感覚」が屁でもないことに。多分。現代というまやかしと現代美術という意味不明さ。人は自分を取り戻すにあまりにも限られた時間の垂れ流しをやってしまうのである。”時間”や”現代”という観念には言葉以上のものはなく、生き生きと見えてきたのは、絵筆をもったあの日。野望や欲望よりも内から沸き起こり外へとぶっつかる、抑えようもない描くことのうれしさであろう。
佐賀大の学生のころより早くも絵画の平面性に着目した。写真のネガ、ポジのミクロの関係をキャンバス上にあらわにしてしまった。絵画の平面性は一貫して貫くのであるが、動きにくい作られた感性をそぎ落とし絵画に自然に接しようとする。その分モチーフの幅は広がった。自然であることは目の前にある”自然”であることなのかもしれない。探究者に安住などない。亡くなる間際でも思い悩むのではなかろうか。
「安らかに・・」とは人情ではあろうけど。
田んぼ、山、干潟の風景などの水彩画も深い。絵画の平面性を下敷きに自然を克明に映し出そう、切り取ろうとする。切れ味がイイ。センスがイイ。道半ばとも取れるが、それも人生ではないか。
龍ちゃんが、やろうとしていたことは、ボクなりにはわかるつもりである。龍ちゃんの絵から受けた刺激や学びは少なからずやです。それが希望という名の筆致になればいいのですが。
海に浮かぶ小さな島に見える水彩画がある。その余白は海ではなく田んぼのようだ。企画者の平井潔さんに聞くと、林田さんが棲んでた小城・三里の風景らしい。余白の中に小さな家がある。狭いながらも山であり、島であり、列島である日本いや世界の縮図。人間・林田龍信、ここにあり。ありがとう。
島ではなかった山だった