服部大次郎の日々雑感2024⇦2006

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冒険王・横尾忠則

東京に来たからにはとインターネットで調べると世田谷美術館に「冒険王・横尾忠則」があった。あいにくの雨。それでも横尾さんに会えるかも知れない、と用賀から美術館行きのバスに乗る。木々の多い閑静な町だが、道路が狭く渋滞になかなかバスが進まない。はじめての世田谷美術館は森のような公園にあった。ケヤキの巨木を配した正面入り口付近の確かな空間に来てよかったと感じ入る。日本離れしたたたずまいである。観客は99%若い人たちであって、次々にやってくる。世界の名画をユーモアにアレンジした模写の小品群。Y字路絵画。雑誌に挿絵を描いてた頃の原画、校正指示画。瀧、ジャングルジム、冒険王の世界に少年探偵団が入り込む最近の大作品までがズラリ。ボクらが横尾さんに憧れたのは赤テントのポスターや平凡パンチや太陽のイラストや挿絵であった。そこいらのことは糸井重里さんが度々書いており、似たような出会い感想であり、当時の若者文化を先導(扇動)した寺山修司さんらと並ぶものである。映画では「初恋地獄篇(羽仁進 監督1968年)」新宿泥棒日記大島渚 監督1969年」「書を捨てよ町に出よう(寺山修司 監督1971年)」などを見たころであった。銀座で淡いピンクのスーツを着た横尾さんがタクシーから降りて来たので後を付けたことがあった・・。高価な洋書を買い漁る横尾さんをただ見守るしかできなかった日・・。後に県展の審査にみえた横尾さんを囲んでの料理屋で訊ねたところ、「あれは、・・のテレビ収録の帰りだったのでは・・」ということだったが、ホントにすごい記憶力の人である。当時は限られたイラストレーターやデザイナーにより若者雑誌は飾られていた。横尾さんの仕事量の凄さは尋常じゃない。その印刷屋への指示も徹底していて妥協がない。精密なペン描き原画に詳細にインクの色やグラデーションらの指示が書き込まれ、版元になされているのである。そこで解ったのだが、その方式が後の「曼陀羅シリーズ」を生んだようだ。分業することで印刷を版画とする新しい方式で、アートディレクターなる存在も出現した。今回「曼陀羅シリーズ」は出されてなかったが、組むことで作品を作り出すという共同作業をすでにやっていらしたのである。「印刷はぼくを離れた新しい僕の絵・・」と言っておられたのがうなずけた。今なら、一人でパソコンで済むところなのではあろうが、もの創くりは人とのつながりと広がりも肝心なのであって、ボクも外注の依頼はそう心がけている。かく言う横尾さんは1936年生まれというら71歳。若い。精力絶倫にエロチックに活動する疲れを知らない子供のような人。表現も明らかに子供時代から発しておられる。子供時代の宝島は途絶えることがないのだ。横尾さんの西脇高校時代の集合写真があって、一人の女生徒が歌っているように校歌が書きくわえてある。そのふざけっぷりがボクらと重なる。会場では若者たちが真剣に熱心に一つ一つの作品に見入っている。もの音、ささやき声さえしない静まり返った展示場が、不気味でさえあった。うつろにロボットのように注視している。ニヤッとしたり、うなずいたり、ふふーんぐらいあってもイイのに、なにを見てるのやらと観客がおかしくなった。これでは横尾さんも困るのではないかいな・・。最後の部屋にかつて横尾さんからもらった年賀状の原画があった。写真では解らなかったのだが、包帯のような布が従横に貼り付けてあった。会場に横尾さんはいなかった。明日トークショウがあるらしいが時間的に無理。横尾さんに一目会いたかったが、残念。足早に見て回ったのだが、足が棒のようになった。横尾さんには横尾さんの世界、そこに付き合うことはない、見習うべきは若きエネルギー。足が棒になったなんぞかわいいもの。