服部大次郎の日々雑感2024⇦2006

tomatotiger8.sakura.ne.jp

汗の記憶

大した労働もしてないのに汗がにじむ、ポタポタと画材に滴り落ちる。暑い日中こそ冷房を入れ、涼しくなった夜は入れないというのなら、判るが、その逆もよく見る。合理的ではいかないこともある。ポタポタと垂れる汗がそうだ。暑いから汗は流れ、夏だからである。夏を実感する時でもあり、季節まかせの共存のなつかしさに不快はない。四季のよさ、ありがたさをいうなら絶狂調の真昼の夏も受け入れなくてはなるまい。あのころの逃げ場のない夏の暑さは人間の暮しの文化であって、捨ててはなるまい。エコを言う時も、それを忘れていては堂々巡りになりはしないか。「そんなに暑いなら冷房を入れればイイ、何をがまんしてる・・」と思う、そんな人間になっていたようだ。冷房が体に合わないという人たちも意外に多くいらっしゃるのだけれど。


一番暑く身の置き場にパニくったことがある。サウナでも温泉でも炎天下の虫捕りや草野球でもない。夏、東京の四畳半の下宿で熱いそばをごちそうになったときである。煮える部屋で空腹の画学生はずるずると蕎麦をすすり、汁まで飲みほした。吹き出ようとする汗が部屋の熱圧と体のサンドイッチ状態とでも言おうか、川にでも飛び込みたかった。もう一つはオスロからヒッチハイクで北上しようと坂道をルート3へ向けて歩いていた時のこと。上着の上から15キロのリュックを背負い、歩いていたのだが、北欧にいきなり夏が来た。全身の汗がリュックと身体の間で逃げ場を失い比重を増して身体のベールとなっていくのであった。オスロの坂道であんなに焦ることがあるなど、考えもしないが、今はその場所がどこであったか、再び立ってみたくなるのである。ただ、それだけの出来事にも満たない事象が風景としては大きくも偉大に感じられる。作品創りの発想の一つの引き出しではある。