服部大次郎の日々雑感2024⇦2006

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机上の風景

イメージ 1
「机におけるランドスケープ ’79」
 
記憶は曖昧であった。
ここで見ておかねば、記憶の断片となるところであった。
その断片から全体が見えてくるというのは無理で不可能なことであった。
記憶の断片、あるいはとおい記憶の部分からイメージを起こしたり全体像を浮上さしたりと当たり前のように普通であったこともかなり疑わしく曖昧となってくる。
壁の前に机があって、その上にLIFEを開き、そのページにゴキブリを描いたまでは当たっていたが、その他は完全に記憶から飛んでいた。絵は縦描きと思っていたが、横描きだった。
机上は物が散乱し、にぎやかなイメージだったが、せい然と物は置かれており、ユース佐賀美術展の「机ー78」を下敷きにしているのであった。
三週間ぐらいは制作したはずなのに目撃証拠も状況証拠ない。
冤罪も起これば机上の空論にもなりかねない。
時々目に触れたり、話に出たりして記憶はつながれていくものだけど、それもなければ忘却の彼方である。
フロイトの夢判断は幼少期の体験、記憶というものが最も重要な源であり、そこからその人間を分析し判断しようとする。
フロイト的分析は世の常識でもあるのだが、フロイトの説は"おかしい"と言われるのも今日。
フロイト的というのも全体ではないということなのか。
部分と全体。全体から部分へ。
二次元でも三次元でもなく放射線状に対角線状に動くということ。