服部大次郎の日々雑感2024⇦2006

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中尾和紀ジャ個展

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吉野ヶ里町のギャラリーアートエル。<6月27日~7月2日(日)まで> 5M四方のギャラリー中央に箱形のオブジェがあって、そこから数本のビニールチューブが天井へと伸び、触手をひろげ、画廊全体を覆っている。 一体これは何だ? チューブを液体が流れているようでもあり、血管にも見える。「ミクロの決死圏」か!ブレイン(脳)の中に入ったようだ。 まんまと作者の罠にはめられたのではないだろうな。尚も何かを探そうとする。 壁面には中尾氏の分身的キノコ雲のような脳みそのような樹の絵が飾られ、また、切り抜かれた樹が別個の作品ともなって、飾られ、再び樹はタブローとしてキャンバスに収まっていく。 あるいは、その逆の過程でもあり、コンバイン的樹の作品は平面を越え、機械化され、電飾され動きだそうとするが、いずれにせよ、風景(現実)の反転と反復と言うことのようだ。 イルミネーションも蛍光管も中央のオブジェ・原子神母の頭脳に照らし合わすと血液、神経系の現れにも見えるのである。 インスタレーションと言うより、思考の反復はコンセプトアートである。 自分で在ると言うことは、感覚的にも目に見える外からの情報であり、自分の位置を知ろうとすればするほど、位置は混沌と最低二極間で揺れているものである。 描くと言う意味でのゴッホセザンヌピカソがいるなら、そこからの啓示、情報はより感覚的、頭脳的な表現を必然的に含んでいた。 氏のアートも限りなく遊びに見せて遊びではない。事実、遊びたいと誰しもおもってはみても、遊びをやってる訳ではない。 遊びと言う概念のたのしさ、おもしろさに限りなく近づこうとする方法なのである。 メインとなるオブゼは十数年前から中尾さんの家の前に飾られていものである。風雨を耐えて天空と対峙していたと言う意味では、時間そのものである。「2001年オデッセイ」のモノリスであってもイイのだ。 一種のコア(核)、時間を内包するブレイン(脳)。 本来の「ゴトンゴトン(車窓の人)」「家族」や「楽師」らのアクションペインティングとはちょと異なったここ10年ぐらいの思考経路の展開。 おもしろさの中にも皮肉があり、反復は癒でもあった。