服部大次郎の日々雑感2024⇦2006

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ある通夜

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松下四郎さんが5月18日、亡くなられた。91歳。
米寿のお祝いをして3年後ぐらいに入院され、お会いすることはなかったが、
今、棺で眠る松下さんと会う。
祭壇は菊ではなく白ユリで飾られている。
白ゆりの園で目を閉じた変らず柔和な松下さんがつらい。
鹿児島出身。台湾育ち。佐賀にて杵島炭鉱の実業団の野球の選手、監督その後、画家になられた。「今度うまれたら直ぐに絵描きになるよ」というのもよく聞いた。
杵島炭鉱時代の野球の話で登場したのが後の巨人軍で活躍した黒江選手の話であった。たのしそうに話される。聴衆はそれに聞き耳を立ってた杯を重ねるのであった。威張ったところを感じさせない男の大人だった。
一人娘の千降さんには目がなく、ことに触れ話されていた。
頭脳明晰、礼儀正しく、ダンディー、一見豪快にも見えるが、ひょうきんで楽しい方だった。
同年の友達もいらしたが、若造のボクらと付き合い,呑むのも好んでいらした。
ボクらとしてもだれもが松下さんを尊敬し好きだった。
そんな絵の仲間がこの通夜の場に参集している。
松下さんの秘蔵のかくし芸”月が出た出た(炭坑節)”があるが、もう封印すると言われながら二度見たのが、ホント最後のようだった。
裸踊りに近いパフォーマンスであり、故・原徹雄さんは「記録しておく芸だ」とも言ってた。
当初、炭鉱時代の工場などの絵も描かれていたが、次第に台湾のそれもアミ族の絵を描かれるようになった。
台湾には友達も多く度々行かれて旧交をあたためていらした。
アジア美術展に出品していた松下さんとボクはオープニングや国際交流で台北に行った。裏町、下町、路地裏と松下さんの行きつけの店などにも連れていってもらった。
後半は台北で個展を開きたいと意欲的にアミ族の衣装などにも取り組んでいらした。
松下さんの形見の品といっていいのか、それがボクの仕事場にある。
油絵では手や筆を拭くとか布で絵を描くとか何かと大量の布を必要とする。
その作業用布を大量に二度にわたっていただいた。
ある下着メーカーから端切れをもらってくるといわれていたが、
とはおもえない正に綿の反物のようであった・・。
その綿布でオブジェやねずみ男も作った。
そうか、松下さんはねずみ男かもしれんと閃いた。うん、ちがうか。
「タダだから気にしなくていいよ」とは言われるが、松下さん流のご好意である。それも残り少なく大事に使おう。
通夜には親族の七郎さんもいらしたが、何人兄弟であったのだろう?
喪主の千降さんが声を震わせ「みなさんのお世話になり・・いい人生・・母と会っていることでしょう・・」とお礼の挨拶された。
出席者の多くが、いやいや松下さんに世話になったとおもったことだろう。
やすらかにお休みください。またお会いしましょう。