服部大次郎の日々雑感2024⇦2006

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塚本猪一郎・カレンダー制作20年記念展 Tsukamoto Black

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  しとしとと雨。 午後、「塚本猪一郎・カレンダー制作20年記念展」(県立美術館)を見る。広い4号展示室に額装されたシルクスクリーンのカレンダー20年分と油彩、アクリルの大作、鉄板のオブジェらが一堂に並ぶ。 一見、インテリアルームにいるような楽しい展開である。 ソフィストケートされた作品が醸し出す雰囲気なのだろう。 油彩らの大作は平面的である以上にテクスチャーにも時間を割いている。 色紙を切り抜いて張り付けただけのような版画作品にしそれは同じことだ。作者の苦しみは画面からは見えない。 いかに「たのしく、自由に」というのが作者のコンセプト、モットーであろうが、カレンダーのキャププションに添えられたコメントにちらっと作者の苦渋が見えている。 黒、赤、青の原色が独自の塚本カラーとなって色彩をはなつ。 スペインの鮮烈な色彩は影を潜め、より日本的に消化したのだろう。 コンポジションであると同時にオリジナルな顔料の強さがあるようだ。  いかに自由であるかは、画家であろうと人々の願いである。 見る側に、それが届けられるなら。 氏の作品は理屈っぽくなく、小難しくない。 ピカソやミロが自由であろうとするように、氏の作品もあどけなく、むじゃじやきなこどもであろうとする。それだけに、見る側にはつかみどころがないもどかしがあるようだ。 しかし、そこは、作者の望むところのものではなく、説明はしない。 日常の一瞬のとちょっとお隣さんと言う感覚。 荒々しい骨太の線が走る大作群も距離をとれば、整然と静寂の時を刻んでいるようだ。 真っ白の紙、キャンバスの中に黒だけという作品に氏のスタート在り方が見えるようで、好きだ。氏の真骨頂は黒だ。 余白は日本的西欧的でもない、もう一つの意識、無意識。言ってしまえば、子供が紙を前にしたときの空間意識とでも言おうか。 解放されていこうとする作品のたのしさと同時にボクは苦渋を捜していていた。 すばらしかった。