服部大次郎の日々雑感2024⇦2006

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武藤辰平 フランスの風

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イメージ 2これまで何度か見せてもらったが、初めて見る作品も多く、新鮮だった。
今回が最も充実した内容になっていたのではないかとおもう。
東京美術学校(現芸大)収蔵の「自画像」は辰平さん26歳の卒業作品であるが、時代は第一次世界大戦。うつ向き様の眼差しに込められたものは青春の鬱積の中のかすかな希望か。
1920年に制作されたもので、7歳年上の中村彝が同年に描いたエロシェンコ氏の像 ともどこかオーバーラップするし、3歳上の岸田劉生の自画像にも共通する雰囲気がある。
パリでラファエル・コランに学んだ黒田清輝、久米桂一郎から岡田三郎助、藤島武二と続く日本洋画壇の潮流に、善きも悪しくも日本洋画壇の黎明期と言えるだろう。
芸術の都・パリへ行くことは憧れ流行以上のものであったろう。
覚悟があっても、金がなけるば行けるものでなく、佐伯祐三など平民はたいへんであったろう。佐伯は結局フランスで30歳の若さで客死しする。
同じく1930年会の前田寛治も34歳で亡くなっている。
後の日本洋画界の骨格をなすべきそうそうたる画学生がぞろぞろいたわけで、辰平さんも謳歌するよりは、そんな大陸的空気や派閥に尋常ではなかったろう。
卒業10年後・1930年、辰平さんも36歳でパリへ渡られる。
大店の質屋の息子さんで、学業にも優れ周りからも期待されて旅発たれたことであろう。
遅いような気もするが、思い悩み機をうかがっているうち10年が過ぎたということであろうか。
パリでは堰を切ったように描かれたようだ。1932年の作品は総じて勢いがある。激しさというよりは伸び伸びとたのしさに満ちている。
風景の輝きを光と色彩で感じようとするを印象派である。
しかし、それも長くは続かない・・。
時に何をしにパリに来たのだろうと、素朴に孤独感に囚われることも少なくはなかったろう。現地の留学仲間との交友もあったろうが、焦燥と不安は消えるものでなく、ましてや、日本にいる親、家族のことを思えば、奮い立つしかなかったろう。そうでなくば家族を残して4年間もおられなかったろうし、病気になるのが落ちであろう。
それを埋めるためにも、研さんからも模写という日々の行為が揺らぐ信念を支えていたのではないかと考える。
美術館での名画の模写はミレー、ルドン、セザンヌゴッホなど60点に及ぶというから、いかに勤勉に過ごされたかであり、勝手な推測は失礼千万であるやも・・。
絵画作品からもその誠実さはうかがえる。虚飾、おごり、自意識というものがない。静謐に誠実な筆致で感情が乱れるということもなきように画面はどれも静かである。万人の欲とは異質な欲と言えばいいのか。
昂揚さえもよろこびの色彩に変えて塗りこんであるようで、一見には掴みどころがなくもないが、耳を澄ます谷川のせせらぎのようにじわじわと聞こえて(見えて)くるのである。
映画でいえば小津安二郎の「東京物語」と言ったところか。
どんよりとしたパリの街やセーヌ河。一瞬の春夏には陽の輝きはあるものの、年間をとおしてどんよりとした空のパリ。
異国であろうと日本であろうと変わるものではない。
フランス賛歌もなければ、大げさな異国趣味もない。
あるのは、風景に満ちる光と色の感受性で、帰国後に描かれた作品にはそれが弱い。無意識の表れが結果、場所の違いとなって現れたもので、西洋を学ぶ半面、様式スタイル、理屈を遠のけて行かれたのでは・・と。帰国されてからは住まいのある材木町周辺の風景、庭の花、バラや阿蘇の風景を描かれているが、気負いなくおおらかに漠として見てあるようだ。
強いメッセージを込めるでもなく、パリを偲ぶでもなく阿蘇の山とススキ野は漠としている。
激動の時代にあって、流され翻弄もされず、パリも住処とする佐賀であったのか、パリはパリ佐賀は佐賀であったのか。
イメージ 2佐賀中学時代の同級生で後の日本画の池田幸太郎氏、洋画の松本弘二氏、陸軍中将・井原潤次郎氏らと交友が深かったと聞くが、美術協会においての武藤辰平さんのことはほとんどわからないし、当時を知る人も少ない。
19歳で佐賀美術協会創設に参加され、後に山口亮一会長の時に副会長をされている。そのころ、子供だったボクも同じ町内で、「蔵の中で絵を描いている人」と存在は知っていた。町内の世話役などもされていたようだし、お会いしたこともあったろうが、定かでない。
現在、辰平さんの三男の良平さん(ボクの高校の一級後輩)ら姉弟が、武藤辰平さんの検証、作品保存管理をされているようである。材木町の自宅に武藤文庫を設立された。